ルンバと慢心

ルンバから多くのことを学んだ一日だった。本当に今さらの今さらなのだけど、我が家に初めてルンバが来たのだ。来たのだと言ってもいきなり買ったわけでなくレンタルなんだけど(ルンバは公式サイトから2週間レンタルができる)。それが今日届き、開封し、充電し、家族全員が見守るなか起動した。

完璧じゃないのだ。動きが。うすうす知ってたけど、あっちに行き、こっちに行かず、またあっちに行く。同じとこに出たり入ったりして、あるいはなかなか出られなくなって、ブイーンと部屋を出たかと思うとまた帰ってくる。クルクル回って、ちょっと頑張って、自分で充電スタンドに戻る。その様子を家族で「あらあら」と見ていた。

「部屋を隅々まで自動で掃除する」という理想は100%叶わない。機械なのに完璧じゃない。それがそこそこの値段する。でもなんか「こういうものだよね」と思わされる。やっぱり部屋に物が多いですよね?とルンバのほうに合わせようと心が動く。人をおおらかり、寛容にするなにかがルンバにはある。ルンバをご利用の方はとっくにご存知だろうけど今さら知ったのだこれを。

自分より小さきものが失敗を繰り返す、そこに愛嬌を感じるのもあるだろう。何度もトライする姿に健気さも覚える。完璧人間より、ちょっと隙があるほうが愛される。でも失敗に「愛嬌」や「健気さ」を感じるのは、こちらに心の余裕があるからだ。「相手は自分を超えてこない」とどこかで思っているからではないか。自信にせよ、慢心にせよ。

たぶんルンバがこの先進化して、部屋も台所も洗面所も隅々まで巡り、障害物を完璧に避け、最短距離で充電スタンドに戻ったら、満足感より寒気がするんじゃないかと思う。簡単に言うと、引く。マジで…ってなる。だが機械の理想としてはその「引く」ゾーンがゴールだろう。AIが人間を超える超えないの議論もそこにあるだろう。超えたときに感じるのは畏怖だろう。

今も部屋の隅でルンバは静かに眠る。明日になったら少し賢くなっていて、その次の日、そのまた次の日とステップを登り、そして…。ルンバを笑って許せるのは今のうちかもしれない。ルンバを許せているのは自分に慢心があるからなのかもしれない。それとももうちょっとグレードの高いやつをレンタルしたらもっとちゃんと掃除してくれるのかなどうなんだ。

10円で買えるものの話

僕の世代で10円で買えるものと言えばチロルチョコで、バレンタインデーにチロルチョコをもらったことがある。祖母から100個入りを。

祖父母の家からちょっと歩いたところにお菓子問屋があったから、散歩で足を伸ばして買ってきたのかもしれない。100個入りってアレである。駄菓子屋の店頭でチロルチョコを売るときの、同じチロルチョコがぎっしり入ったアレ。開封前の箱は直方体で、中にチロルチョコが5個×5個×4段入っている。蓋を真ん中で折り返すと「チロルチョコ」というディスプレイが飛び出すようになっている。もちろん蓋は折り返し、家のリビングでお店に置いてある感じで置いて、毎日ちまちま食べた。嬉しかった。白と黒の包装紙のミルクだったはず。

10円で買えるものも何個も集まると迫力が出る。逆に考えればどんな高価なものでも細かく分ければ10円で買えるものの集合体になるはずだ。たとえば1000万のフェラーリを10円単位に切り刻んだらどれくらいの大きさになるのだろう。チロルチョコより大きいだろうか、小さいのだろうか。

フェラーリだった真っ赤な立方体をかき集めて、箱に詰め直そう。リビングに置いて、毎日ちまちまと1個ずつ取り出し、フェラーリに戻そう。でも1000万円を10円単位に分けるからパーツは100万個になる。100万日かかる。100万日は2740年くらいになる。それくらい続けるには子孫を残し続け、伝承を守ってもらわないといけない。保管のために社みたいな場所もいるだろう。僕が神みたいな存在になっちゃう。どうしよう。というか、そもそも人類は残っているだろうか。

誰もいない地球で赤い立方体が耀く。海が干上がっていて地球は既に青い星ではない。何万光年も先の星から見たそれはキラキラと赤く輝いているかもしれない。でもその輝きひとつには10円の価値しかない。

ルーマニアの祭りは「節分」か「なまはげ」か

ルーマニアでは年末に熊の毛皮をまとった人々が街を練り歩く、らしい。

朝に『突撃!カネオくん』の再放送でやってた。いろんな国の「クセつよ年越し」を紹介するコーナーだった。ルーマニアの熊、本物の毛皮だけあってかなりリアル(ここに写真もある)でも中身は子どもだったりしてかわいい。

しかしふと思った。この熊祭り、ルーマニアにとってどれくらいの規模なんだろう。

番組をぼんやり見ていると「ルーマニアの年末恒例行事!」みたいに思っちゃう。でも実は一部の地域の祭りなのかもしれない。日本で例えるなら節分の鬼クラスなのかなまはげクラスなのかでだいぶ印象が違うだろう。

裏を返せば、日本の地域の行事も「日本の恒例行事!」として海外で紹介されている可能性もある。そこでは日本全国になまはげが登場していることになっているかもしれない。

日本全国の各家庭になまはげを送り込むには、十分なリソースを確保せねばならないだろう。その実現には巨大ななまはげグループが必要不可欠だ。その組織構造はヒラのなまはげ2万人が支える始まるピラミッド構造になっていて、頂点に真っ黒のなまはげがいる。真っ黒のなまはげは誰もその姿を見たことがない。しかし組織に逆らうと「悪い子がいたね」と夜中に電話がくるとかこないとか。

そんなことを考えていたら、次の「クセつよ年越し」はオランダ。冬の海で寒中水泳をするのが恒例行事だという。

これも一部の地域の行事かも…と思ったらオランダ全土で200万人が参加するらしい。あまりの寒さに救急隊が駆けつける事態もあるとのこと。大丈夫かオランダ。寒い子はいねが。

知り合いかもしれないとInstagramが言う

Instagramを利用している○○はあなたの知り合いかもしれません」という通知がちょくちょくくる。

でも確認すると全然知らない人ばかりなのだ。今日通知が来たのはコスメアカウントだった。毎日化粧品やネイルをアップしている。知り合いだとしても全く手がかりがないし、僕のインスタは路線図の写真ばかりアップしているので全く関連性がない。

いや、どちらも「色がいっぱいある」でしょうってことかな?整ったのかな?

そんな謎かけのノリで通知しないでほしいのだけど、もしかしたら本当に僕の知り合いの可能性だってある。ビッグデータがそうささやいているのかもしれない。でも覚えがない。

…忘れているのか?

思えば人の名前と顔を覚えるのが苦手だ。たとえ覚えていても「間違っていたら」と思うと本人に言う自信がない。それなのに向こうが僕の顔を覚えていることが多々ある。「井上さんですよね!」と言われてうろたえることがある。非対称だ。どういうことなんだ。

Instagramの「知り合いかもしれません」が、忘れているだけで本当に知り合いだったらどうしよう。ちゃんと確認しておきたい。でも 「僕と知り合いですか?」と聞くのも、知り合いだったら失礼だし、知り合いじゃなかったら「は?」だ。

逆に「久しぶり!」と接するのはどうか。向こうに「知り合いかも…?」と思わせるのだ。堂々と振る舞ったらいい。久しぶり!そのコスメ素敵だね。ところで誰だっけ?

そんな振る舞いをしたところでこっちは路線図の写真ばかりアップしているのだ。コスメの方には意味が分からないだろう。どちらも「線を引きます」ってことかなと思ってくれるかどうか。

まだ視力検査は「右」と言わせている

眼科に行く。2021年最初の診察日だったが、思ったより人がまばらだった。みんな目も休めただろうか。

今日は検査のために瞳が開く目薬をした。看護師さんに目薬をさされ20分くらいかけて徐々に視界がぼやけていき、最終的にプールからあがったばかりの視界になった。面白くもあり、ちょっと怖い。このまま視界が戻らなかったらずっとプール上がりの視界だ。全身がびちょびちょのまま生活する姿が浮かぶ(検査は異常なく、視界もやがて戻った)

それにしても、どれだけテクノロジーが発達しても視力検査は人に「右」と言わせているな、と思う。

目に数秒あててピピピと鳴ったら小さなディスプレイに「0.8」と出る、小さな機械がそろそろ発明されたっていい。でもそんなこともなく、視力検査は計られる人の主観にずっと任されている。適当に言った「右」がうっかり当たることもある。身長を適当に「178cmです」と言ったって認められることはないのに。

いつまでも主観に任されているということは、それなりに理由があるのだろう。目がカメラのレンズだとするならば、レンズは正常なのにセンサー(神経)に異常がある場合もあるだろうし、レンズもセンサーも正常なのにIC(脳)が像を結ばないことだってあるのだろう。

僕らが見ている景色は僕らにしかわからない。主観に任せたままの視力検査がそれを証明している。機械でピピピとわかる日が来たら、それは意識を外から観察できる日が来たときだろう。考えてることがわかっちゃう。それはそれで代償も大きい気がする。

今日は「右」と言ったあと「右〜?」って聞いてくる看護師さんだった。ヒントだ!ラッキー!と、「……上」と言い直したら「下です」という正解発表だった。浮かれた自分が恥ずかしい。でも「ヒントだ!」と浮かれた意識が外から観察されてなくてよかった。