スーツを着てもタヌキが化けている気がする
久しぶりにスーツを着たら軽いパニックになった。
スーツ、ここ半年くらい着てなかったんですよ。以前は企業に取材するときはスーツにネクタイ姿で行ったりしてたんですけど、ジャケットが導入されてからはこいつは楽だとジャケットばっかりになってしまった。ビジネスカジュアルにどっぷり浸かってしまった。
迎えた今日。スーツ着用が義務づけられた用事があり、ワイシャツ、ネクタイ、スーツと久しぶりに袖を通したら……あれ……これだっけ……これで合ってるんだっけ……とものすごく不安になった。ネクタイは結べるのだけど、ワイシャツと上着の組合せに違和感をおぼえてしまう。いつも着てたやつこれじゃなかったっけ、とクローゼットに何着かあるやつに着替えてみても違和感が消えない。
なんとか「これだったかも」と思える格好になるも、今度は靴がどうだったか忘れている。このスーツにはこっちを履いてたっけ……それともこっちだったっけ……。
頭が、体が、スーツを忘れている。会社員時代は毎日着てたのに。10年以上そういう習慣だったのに。そうかー。忘れるかー。そういうものかー。
家を出て、電車に乗る。他にもスーツの人がいる。それに混じってスーツの僕がいる。なんだか他の人と違うような気もする。都会に出てきたタヌキがうまく化けられているか気にしているような、妙な気持ちになる。タヌキも大変だな。
30分もするとその違和感はすっかり消えてしまった。それはそれで不思議で、誰にも何にも言われないと「これで合ってた」となるらしい。違和感、ちょろ過ぎやしないか。
なにはともあれ、スーツの用事は終わった。その時に撮った動画がこれだった。
デイリーの会議で林さんの作の「目がグルグル回るメガネ」をつけさせてもらいました。「井上さんはなんでも似合いますね」と高評価でした。 pic.twitter.com/63VCXjumOP
— 井上マサキ(INO) (@inomsk) 2018年5月8日
スーツが習慣じゃなくなった以上、スーツ着用はもはや「サラリーマンのコスプレ」でしかないのかもしれない。
Pepperがうなだれるのには必然性がある
Pepperがうなだれているじゃないですか。
閉店後のショーウィンドウの奥で、家電量販店の片隅で、携帯ショップの店頭で、電源が切れたPepperがうなだれているじゃないですか。
向かいのホーム、路地裏の角、こんなとこにはいないんだけども、うなだれている姿は脳裏に残ってるじゃないですか。白い頭(こうべ)を垂れ、腕をだらんと垂らし、なんならちょっと猫背になっている気もする、電源が切れたPepper。
でもあれ、よく考えてみたら、電源オフの時にわざわざうなだれるように設計してあるんですよね。「うなだれる姿勢」になって終わるようにしてある。あぁやってうなだれているから「あ、いま話しかけちゃダメなんだな」「機能を停止しているんだな」って一発でわかる。
あれが直立不動のまま機能停止していたらどうなっただろう。
白い後ろ姿を見かけて、あ、Pepperだと気づく。前に回り込んでみると、目に生気が宿っておらず、ピクリとも動かない。機能停止という発想に至る前に「死」の文字が浮かぶ。
うなだれていれば目がどうなっているかもわからない。なんならちょっと居眠りしているようにも見える。人の形をしたロボットは、動かない間も人を踏襲するのだなと思う。
息子よ骨折の流れから運命を変えてくれ
実は4月下旬に小2息子が足を骨折しまして。
いや、骨折と言ってもですね、かかと辺りの骨に小さなヒビが入った程度なんです。どうやらですね、昼休みに鬼ごっこをしていて、3段ぐらいの階段から飛び降りて着地に失敗したらしいんです。その時は本人もまさか骨に異常があるとは思わず、保健室にも行かず、そのまま下校して、足を引きずりながら学童まで行っちゃった。
学童から足がすごく腫れてるですけどと連絡があり、カミさんが迎えに行って近くの接骨院で診てもらったら「骨は折れてないでしょう」という診断になりですよ。包帯で足をグルグル巻きにされて帰ってきたものの、翌朝になったら歩くのもつらいと本人は言う。
でも骨折れてないって言われたし学校行けるんじゃないのか、でも本人痛がってるし無理させられないんじゃないか。家族で意見が割れたものの、やっぱりちゃんとレントゲン撮ってもらおうと(接骨院にはレントゲンの設備が無かった)、学校を休んで整形外科に行ったら、骨にヒビは入ってますねとなったんですよ。
冒頭に戻りました。ここまで長かったですね。おさらいです。
そんなに高くない段差から飛び降りる→着地に失敗→みんな骨折れてるとは思わない→翌日病院に行く→骨折だと判明
……この一連の流れ、見覚えがあるんですよ……。
動物園でわずかな段差から飛び降りる→着地に失敗→みんな骨折れてるとは思わない→翌日病院に行く→骨折だと判明
やってた。僕も同じことやってた。なんだこのDNA。こんなうっかりハプニングまで遺伝しなくなったっていいじゃない。やめて。こんな運命の輪やめて。
容姿とか性格とか、親に似るポイントっていくつかある。うちの息子と自分の子供時代を比べると、「そこまで運動神経がないのにやたらアクティブ」というとこが似ている。その結果、ちょっとした段差から飛ぶ(アクティブ)、着地に失敗する(運動神経が無い)。
行動パターンも似てくると、そこから引き起こされる出来事まで似て来ちゃう。性格→行動パターン→ハプニングに、「似る」のドミノ倒しが起きちゃうんじゃないか。
そのドミノ倒しは、親となった自分が、当時の親の苦労を追体験するという形にも表れる。小学校まで車で送り迎えするの、大変だった。仕事も滞った。足以外元気な息子をいなすのも苦労した(家で暇を持て余すし、ちょっと治ったらすぐ走ろうとするし)。
それにしても困った。息子よ、これから先いろいろ大変だぞ。次は学校で友だちとじゃれているうちに突き飛ばされてオルガンの角に頭を打ち1針縫うぞ。預言者の気分である。今からハラハラする。未来を変えてくれ。
覚えてないけど楽しかった記憶だけある飲み会
目的の無い飲み会が一番楽しい。
円滑なコミュニケーションをお酒の力に頼るあまり、「目的」がある飲み会があるじゃないですか。人脈を広げるための懇親会があり、部下に仕事論を語りたい上司がいて、それこそ男女が出会いを目的した合コンがあるじゃないですか。
でも「目的」がある飲み会は、目的が達せられるがどうかが常に頭の中にある。久しぶりに集まった友人との飲み会だとしても、「久しぶりに会うのだから再会を楽しみたい」という目的がある。テーブルの端と端に離れて座っちゃって、なんか結局全然話せなかったな、みたいなのある。
そこで目的の無い飲み会である。いつもの面子、記念日でもなんでもない日、ほどほどの頻度、敷居が高すぎない店。ただただバカな話をして、あんなにゲラゲラ笑ったのに翌朝なんであんなに楽しかったのか全然覚えてない。そこには「楽しかった」という記憶しかない。楽しさに包まれたならだ。眼に映るすべてのことはメッセージだ。
そんなことを思いながら『酒の穴』を読んでいた。
スズキナオさんとパリッコさんの、酒をめぐる会話。外に椅子を出して好きなところで飲んだり、酒場を転々としたり、人生のアルコール濃度ってなんだろうと考えたり、死後の世界に自分の好きな店が集まった横丁が出ないかなと思いを馳せる。
二人が織りなす目的も意味もない会話はただただ楽しくて、翌朝になったら忘れてそうで、でも楽しかったことの記憶だけはある。それは確かにストロングでゼロで、強くて無だ。こんなお酒が飲みたいなぁと羨望の眼差しで見ちゃう。いいなぁいいなぁ。
お二人の会話の楽しさは、こちらの記事で味わえます。チェァリング楽しそう。
椅子さえあればどこでも酒場「チェアリング」とは!? - デイリーポータルZ
大人になるとは失うことなのか
松屋のごろごろチキンカレーですよ。
ネットで噂になっていたやつを食べました。感動して二日続けて食べてしまった。本当にチキンがごろごろと入ってる。カレーとの調和も抜群で、世の中にこんなに旨いものが….ぐらいの大きな主語でありがたがってしまった。
思えばちょっと前、ジョナサンで夕飯を食べた時、タンドリーチキンのなんとかライスというやつを頼んで食べたのだった。
メニューでは皿を覆うほどのチキンがジューシーに横たわっていたが、まぁそんなこともあるまい、わたしは詳しいんだ、と、お腹が空いてたのでライスを大盛りにした。料理が来た。
ホントにあの大きさだった。
動揺した。ホントだ…ホントにあの大きさのチキン…! 食べ応えは十分で、そのスパイシーさに食は進み、大盛りでも普通に食べた。あれも旨かった…。
それしても、である。冷静になってみれば、どちらもメニュー通りのものが来ただけなのだ。
メニューの写真に載っている通りのものが、現実のものとなって運ばれてきた。当たり前のことじゃないか。当たり前のことなのに、これだけで感動してしまう自分がいる。
自分は余程裏切られてきたのだろう。こんな厚さのハンバーガーは出てこない。CMのあともまだまだ続かない。ノーバン始球式にパンツは関係ない。いい意味でおじさんですねはいい意味じゃない。
期待して裏切られ、それですっかりわかった顔をしていた。それが大人になるということなら、得たものより失ったものが多いだろう。大人になるということは、失うことなのか。それが大人か。
期間限定メニューである松屋のごろごろチキンカレーは、このゴールデンウィークで姿を消すかもしれないという。本当のことなのだろう。本当にごろごろとチキンを入れてくれた松屋が言うならそうなのだろう。でもこれだけは、これだけは裏切られても構わないと思った。どうか常に松屋で真実とは何かを教える存在であってほしい。