「ざんねんな」「いきもの」「事典」スロット
ベストセラーになった『ざんねんないきもの事典』。
このまえ本屋に行ったら、その「亜流」がたくさん平積みになっていてちょっとしたフェアになっていた。並んでいたのはこの辺り。
よくもここまで亜流が、とベストセラーに対する憧れの強さに目がつぶれそうだが、面白いのは『ざんねんないきもの事典』を「ざんねんな」「いきもの」「事典」の3つのパーツに分け、それぞれ言い回しを変えてタイトルを作っていること。
「ざんねんな」→せつない、しくじり、泣ける、どんまい
「いきもの」→動物、偉人、ペンギン
「事典」→図鑑、大集合、伝
もはや「ざんねんな」「いきもの」「事典」スロットだ。この3つのパーツを適当に組み合わせれば新しい本が出まくりである。
『せつない偉人大集合』とか、もう既に出てるんじゃないかと思う。
ライト兄弟の前は「てるお・はるお」でした
前回の記事を書いてから思いだしたこと。
最近Twitterでこのツイートが僕としては近年まれに見るレベルで拡散されたんですよ。
小1息子が「ライト兄弟も本当の兄弟じゃないかもしれない」と疑っており、その根拠を聞いてみると「阿佐ヶ谷姉妹は本当の姉妹じゃないから」とのことでした。
— 井上マサキ(INO) (@inomsk) 2018年3月21日
いいかい息子よ。ライト兄弟はコンビの芸人じゃない。「飛距離だけでも覚えて帰ってくださいね」とか言わない。
たくさん拡散されるとたくさんリプも付くわけで、代表的なのがこの2つ。
前回の記事では「人はついツッコみのためにSNSに書き込んでしまうなぁ」と己を顧みたものだったのだけど、まさにこのツイートのバズがそれだった。足りない情報やプラスできる情報、つまり「さらに自分が知っていること」って、つい言いたくなってしまうものですよね……。
もちろんただ単純に「おもしろい!」「すごい!」「これ見て!」という気持ちでシェアされるものある。
ライター業としてWeb記事を書いているとたまに記事が広く読まれることがあるのだけど、それがどっちのバズなのかはちゃんと意識したほうがよさそう。できれば後者のほうで拡散されたいものですな……。
世の中すべてにオチをつけなくていい
最初何を言っているのかわからなかった。「選びま黒ー!!」?
「選びましょう〜」を「選びま黒〜」ともじってるならあまりに字余りだし、意味が通らないし、ははぁ〜んこれはあれだな、わざと字余りにしてこうやってネットでシェアされることを狙っておるのだな、まで思った。知ってるぞ。わたしは詳しいんだ。
で、うっかりツイートしちゃう前にようやく気がついた。
これ、「選びまくろう」だ。
「選びま/黒ー‼︎」と改行されているので気付きにくかったのもあるし、黒烏龍茶ひとつ選択肢に加わっただけなのに「選びまくる」というのもいやいやそれほどでもだし、結局この違和感をSNSにシェアしてしまうかもだけど、さっきの「ははぁ〜ん」は勘違いだった可能性がある。
SNSが発展して以来、どうも我々は「ツッコミ目線」で物事を見てしまうし、それを見越して広告キャンペーンの類が「ツッコミ待ちのボケ」を仕掛けることが増えた。ツッコんでもらって拡散してもらう、という魂胆である。
で、今度はその構造に気がつくと、世の中の広告キャンペーンが全部ボケてるように見えてきて「ははぁ〜ん」とか「わたしは詳しいんだ」とか言ってしまうのだ。
それは僕だ。僕である。このおじさん、そういうおじさんなんです。そうです、わたしがそういうおじさんです。
自分がツッコむことで世の中すべてにオチをつけようというのは、傲慢な行為なのかもしれない。
天気が良かったので外で食べました。
この世の全てがパロディだったらいいのに
「みなさんのおかげでした」最終回を録画で。最後の『情けねぇ』のかっこよさ…。「バラエティを/滅ぼすなよ」「フジテレビを/おちょくるなよ」の刃の矛先は、他ならぬフジテレビに向いている気がした。
— 井上マサキ(INO) (@inomsk) 2018年3月22日
『とんねるずのみなさんのおかげでした』が終わり、以来ずっと頭の中で『情けねぇ』が流れ続けている。ウォウウォウォウ。
最終回の放送前、ネットニュースでとんねるずの二人が歌うことは知らされていた。その時なんとなく『一番偉い人へ』を歌うような気がしていた。タイムラインを見てると他にもそう思っていた人がいたみたい。
でもよく考えると『一番偉い人へ』は、閉塞感を抱えながら「一番偉い人」に「俺たちは いま何をするべきか」と問いかける歌なのだ。「もっと大切な何かを教えてくれ」と問いただす歌なのだ。
『一番偉い人へ』がリリースされたのは1992年9月で、とんねるずの2人は30歳。それから26年経って、今56歳だ。その年月で積み上げたものは大きく高く、自分が何をするべきか、一番偉い人へ聞く必要はもはやないだろう。
『情けねぇ』は1991年のリリースで、2人はまだ20代。20代のとんねるずが大人たちを「情けねぇ」と歌った文脈そのままに、50代のとんねるずはテレビバラエティを取り巻く状況を「情けねぇ」と叫んだ。「芝居じみた正義さ」と歌いながら拳を振り上げた。
…なんてことを思いつつ、ただ単純に画面の中の二人がかっこよかったなぁ…と何度も反芻している。なんかもう、とんねるずが引退しちゃうみたいな寂しさだ。この世の全てがパロディだったらいいのに。
書いてる途中で数字がわからなかったら「○%」と伏せ字にして書き切る
『10倍速く書ける 超スピード文章術』を読みました。速く書けるようになりたくて。1日1万字くらい書きたい(いまだと5000字くらいが限界)。
著者の上坂さんは5日で本1冊分を書き終えるらしい。本の中でも自分が書いた文章を例に出し「30分で書きました」とちょいちょい書き添えてあって、ぬぅ速い……となる。
速く書ける秘訣をいろいろと教えてくれるのだけど、単純に「書く」作業が短時間である代わりに、書く前の「素材を集める」ターンに時間をかけている印象。材料を集めに集め、並べ替えて構成し、そこから一気に書く。書いてる間は余計なことを考えず、最終的なアウトプットに徹するので、「書く」時間にだけ着目すると速い。なるほど。
もう一つ「あぁ……」と思ったのが、書いてる最中は粗くてもいいから手を止めないこと。多少の誤字もおかまいなし。表現に納得がいかなくても最後まで書き切って、あとからみっちり推敲する。書いている途中で数字(西暦とか生産量とか比率とか)が必要になったときは、その場で調べずに「○年」「○%」などと伏せ字にして、書き終わってから調べるらしい。これ、確かに有効だろうなぁと思うのは、書いてる途中にネットで調べ物すると余計なものまで見ちゃって、原稿に帰ってくるのに時間がかかるし、書いてる最中のドライブ感をもう一回取り戻すのが手間になっちゃうから。
言わば「書く」という「シングルタスク」に徹する、ということ。原稿のかたわら、メールに返事したりTwitterでシェアしたりFacebookにコメント返したり、と「マルチタスク」をこなすとすごい仕事した気になるけど、結局は効率が落ちちゃう。シングルタスクにして、一つの仕事を終わらせることに集中すべき。これは年末に読んだ『ライフハック大全―――人生と仕事を変える小さな習慣250』でも言ってたなー。
デスクトップに何も置かないとか、テキストエディタやWordを全画面にするとか、視界に入るものを最小限にして「書く」に集中させるのがいいのかも。構成案などはプリントアウトして紙にして参照すれば、ウィンドウを切り替える手間もないし、うっかり途中でネットを見たりも防げる(はず)。とにかく一気に書き終わろう。そうしようそうしよう。