「ここは笑うところです」という叱責

小1息子とトミカ博に行ってきました。みなとみらいはピカチュウ大量発生チュウで、ピカチュウのパレードにも偶然遭遇しました。かわいい。

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パレードを見終わった小1息子の第一声は「16匹いた」だった。冷静。

クイーンズスクエアで見た大道芸で気になったこと。かなりベテランの方で、一人でトークしつつ「ここは笑うところ」「笑ってもいいんですよ」と何度も念を押しながら芸を見せていた。

「ここは笑うところです」には、「僕はこれでみんなが笑うと思っていたんですよね。でも笑いは起きませんでした。トホホ…」という「自虐」の働きがある。「洒落にならないことに見えますが本人は気にしてません」という意味で使われることもあるだろう。

ただニュアンスを誤ると「ここは笑うべきところなのに皆さん笑わないのはおかしくないですか?」と、自分が滑っただけなのに観客へ責任を押し付けてしまうことになりかねない。観客は意地悪で笑わないわけじゃないし、強制した笑いは結局「ハハハ…」という力の無いものになる。説明会や講義などで壇上に立った偉い人がツカミに失敗して放つ「ここは笑うところです」は往々にしてこんな感じになってしまう。

あの大道芸人さんは終いには「笑えー!」と強い言葉を放ったり、「日本のお客さんってこうなんだよね」と他の国と比べたりしていた。こちらとしてはますます殻に入ってしまう。大道芸自体のスキルはすごくて、最後まで見ておひねりを入れたくらいだったので、なんだか笑えないのは僕のせいな気がしてモヤモヤしながら帰った。

フジテレビ「Muscat」で書いていること

先日、フジテレビのオウンドメディア・Muscatに「めちゃイケ」のコラムを書きました。

ネットニュースでは何かといつ終わるのかと煽られるめちゃイケ、今年に入ってからまた面白くなってきたんですよね。最近観てない人に変化を伝えなきゃ!と思って書いたのでした。

Muscatは今のところ月1ペースで書いてます。最初お話をもらったときは、「ひょうきん族」や「カノッサの屈辱」など、過去の名バラエティを振り返るコラムにするという案もあったんですが、思い直して「いまのフジテレビバラエティで面白いところを書く」ということにしました。

確かに何かと低調なフジテレビ。こりゃちょっと…という動きがあることもありますが、全部が全部そうじゃない。ネットニュースでも「その通りだなぁ」という指摘もある一方、「言いがかりでは?」「それを言ったら他局の○○はどうなの?」みたいな叩き方のものもある。「あそこは何を言ってもいい」と思われてるならちょっと悔しくて、過去の遺産よりも今の面白さを伝えたかったんです。

ただ公式で「褒め」をやるのはなかなか難しくて、ただただ「面白いんじゃ〜」とだけ言うのはヨイショじゃんみたいになっちゃう。できるだけファクトを入れつつ、切り口を保ちつつ、批評の末に「それは面白いね」と思ってもらえるように…気をつけて書いてるつもりなんですけどどうかな…(やっぱりまだ「面白いんじゃ〜」成分が高すぎるかな…という反省もあり)。フジテレビ広報の懐も深くて、公式だけど他局の番組名を挙げてもオッケーなんです。せっかくいただいた機会なので活かしたい。

エレベーターから夕やけTV編集局へ

突然思い出した。

もう20年くらい前、仙台のフォーラスで、タワレコに行こうと乗ったエレベーターで柳沢アナと一緒になったんだった。

当時仙台放送は平日夕方の帯で『夕やけTV編集局』というローカル番組を放送してて、それがフォーラス(というファッションビル)のサテライトスタジオ的なところから公開生放送してたんだった。そのメインMCが柳沢アナウンサーだった。

なんか大食い選手権的なコーナーが始まったとき、地下にある「北京餃子」の広東焼きそば(めっちゃ大盛りで有名)を出したんだけど、放送時間内に誰も食べきれなくて次の週から半分の量になってたんだった。

で、当時は「仙台吉本」があって、夕やけTV編集局が終わったあとライブをやったりしてたんだった。

ハッシュタグひとつでしばらく開けてなかった脳の釜が開いた。柳沢アナの背中は大きかった。いま調べたら柳沢さんは今年の3月で広報に人事異動して「元アナウンサー」になってた。時代は流れる。

石野卓球が言っていた「かっこいいこと」

すごい昔、NHKの「土曜ソリトン SIDE-B」に石野卓球がゲストに出たことがあった。司会が高野寛緒川たまきである。ざっと検索してみたら1995年6月のこと。20年以上前だ。

細かいトークの内容は全然覚えてないのだけど、一問一答な感じで石野卓球に質問する→短く答える、というコーナーがあった。そのなかでずっと覚えているのが「Q.かっこいいとは?」という質問。

石野卓球の答えは「身の程を知ること」だった。

逆に「Q.かっこわるいことは?」という質問には「身の程を知らないこと」と答えていた。僕は高校の時から電気グルーヴを聞いていたのだけど、音楽誌とかのインタビューは全然読んでなかったし、オールナイトニッポンは眠くて眠くて全然聞けなかったので、音楽以外で石野卓球の言葉に触れることがほとんどなかった。はー石野卓球はこんなこと考えてるんだなぁ、と印象にすごく残っている。

で、今日マクドナルドでポテトを食べたんですね。

マクドナルドで仕事をぼちぼちやってまして、なんか小腹が空いたなぁと思って。そしたらアプリのクーポンでポテトのLが320円→190円だったんですよ。おーこれはと思って、Lを頼んでね、食べたんですよ。

多い。

多かった。全部食べたけど多かった。そうでしょうよ。そろそろそんな年でしょうよ。油もきついでしょうよ。いい加減認めないといけないのでしょうよ。これも身の程を知ることなのだろうな、とお腹をさすりながら、石野卓球の言葉を思い出していた。こうやって身の程からはみ出した分を矯正しながら、実物大身の程に近づけていくのだろうな。

「ちゃんと」言わない保育園

先日取材した保育園は「ちゃんと」「きちんと」「しっかり」が禁句だった。

いや、別にその保育園が無法地帯なわけではない。着替えが脱ぎっぱなしとか、テーブルの上に缶ビールの空き缶がゴロゴロしてるとか、パスワードを「名前+123」にしてるとか、こたつで寝ていたら一日が終わったとかそういうことではない。

「ちゃんとして」は具体的な指示にならないから使わない、ということらしい。「きちんと着替えて」ではなく「脱いだ服はこのカゴに入れる」、「ちゃんと食べて」ではなく「こぼさないように食べる」など、何をどうしてほしいのか、子どもにちゃんと示すのだそうだ。

「ちゃんと」の裏には「このレベルまでやってほしい」という暗黙の期待がある。言われた側は言われた側で、「ここまでやれば『ちゃんと』だろう」という上限がある。得てしてその上限は期待を超えないので、「ちゃんとしてって言ったじゃない!」と不満に変わってしまう。

もう、全然子供相手の話ではなくて、完全に大人にも当てはまる話である。上司と部下、妻と夫。「ちゃんと」の応酬、壮絶な打ち合いである。大人になると「ちゃんと」の裏にある期待を「空気」という言葉に変え、言わずとも読むことを是としたりしちゃう。平たく言うと知らんがなである。

さらに対人だけでなく、「ちゃんと」は自分自分も縛ることがある。失敗を前に「ちゃんとしないと」と決意を新たにするも、その「ちゃんと」はボンヤリしていて像を結んでいない。具体的な目標がないので、下手をすると何をやっても「ちゃんとできない……」になっちゃう。

「ちゃんと」は、ここまでやれば「ちゃんと」だと、行動なり数字なりで線を引かないといけない。「普通」とかもそうだよなぁ。というわけで、ちゃんと仕事に戻ります……ではなく、今日中に1本原稿を仕上げます……(言っちゃった)