「直筆原稿が見つかった」はこれからどうなるのか

たまに「作家の直筆原稿が見つかった」というニュースを見かける。

古い家を整理していたら出てきたとか、蔵を掃除していたら出てきたとか、そんな感じで原稿用紙の束が見つかる。そこには未発表の原稿だったりとか、創作のメモだったりとか、誰々に宛てた手紙とかがあって、その作家がどんな思索の中にあったのかなどが明らかになる。

でもPCで原稿を書くことが主流になった今、どんどんそんな機会はなくなるだろう。直筆原稿なんてないもの。メモが見つかったとしても「この時代からPCで文字を書くことが主流になり、漢字を忘れていく様子がうかがえます」と言われるだろう。

PCに残っていたファイルなんかはすぐ見つかるだろうし、あとになって見つかるものってなんだろう、と考えると、これはクラウドじゃないか。

なんらかの新しいサービスが出る、それはメモを記録したり整理したりするのに便利なやつで、最初はおぉ確かに便利かもと使う。でも段々面倒になって使わなくなる。それを繰り返す。すると、「ちょっとだけ使ったサービス」があちこちに残る。

大作家の死後しばらくして、在野の研究家が「このアカウントはあの先生が使っていたものではないか」と発見する。それをきっかけに、同じアカウント名であちこちのサービスが使われていたことがわかる。

Evernoteに大量のメモが残っていたことが分かり大騒ぎになる。WorkFlowlyであの名作のアウトラインを考えていたのが分かる。違う名前でnoteをしばらく続けていたもののしっくり来てない様子が分かる。Notionにちょっと手を出してやめたのが分かる。

ちなみにTwitterの裏垢はとっくの昔に見つかってスクショが出回っている。たいへんだ。

そういえばワープロで原稿を書いていたころの作家だとどうなるんだろう。「書院のフロッピーディスクが見つかった」とかになるんだろうか。読み込めるといいけど。

シュレディンガーの軽部

めざましテレビ』に、めざましテレビを知らなかった新人アナが新たに加入するというニュースを見た。

なんでも、その新人アナの地元・青森県では『めざましテレビ』が放送されておらず、採用面接の時にはじめて軽部アナの存在を知ったほどだという。番組のチーフプロデューサーは「逆に面白い」と起用したそうだ。「なんでこんなタイミングでジャンケンするんですか?」とか思うだろうか。まるで異世界転生のような人事である。

で、ここで気になったのは「軽部アナの存在を知らなかった」ことだ。

青森県ではフジテレビ系列が映らないらしく、となればフジの局アナを知らないのも仕方ないだろう。ただ、私たちも果たして『めざましテレビ』以外で軽部アナを見るだろうか。見ないんじゃないか。そりゃ知らなくてもしょうがないのではないか。

私たちは『めざましテレビ』を見れば、そこに軽部アナの存在を感じることができる。朝方テレビをつけるまで、軽部アナはこの世に存在しているのかわからないと言い換えてもいいだろう。

つまり、テレビという箱の中の軽部アナは、存在している状態としていない状態が重なりあって存在しているのではないか。

それはまるであの猫のように…と思ったところで「今日のわんこ」と共に『めざましテレビ』は終わり、軽部アナの存在は再び宙に浮く。

鳥人間(らしさを総合的に評価する)コンテスト

今日『鳥人間コンテスト』があったのに見逃してしまった。どへくらい飛んだのだろう。子どものころ見た鳥人間コンテストはまだ「仮装部門」みたいなのがあって、面白い格好で高いところから飛ぶ人たちをしばらく見る時間があったりしたものだけど、今や琵琶湖の端に行って帰ってきて折り返してと異次元の世界である。関空から飛ばせてもらったら小豆島に着くんじゃないだろうか。

それにしても「鳥人間コンテスト」である。字面そのままを受け取れば「いかに鳥人間であるかを競うコンテスト」だろう。となると、テレビの「鳥人間コンテスト」は鳥について「飛ぶ」という一面しか見ていない。「鳥人間らしさ」を競うなら、もっと総合的な評価が必要ではないか。

鳥人間らしさを五角形のレーダーチャートで表すとするなら、「飛距離」は入るだろう。あとは「見た目」も入れておきたい。鳥っぽければ鳥っぽいほどいい。「鳴き声」も入れておこう。内面的な評価軸もほしい。「鳥目」とか。鳥は3歩歩くと忘れるというから「忘れっぽさ」も入れておこうか。

でも本当に忘れっぽい人がコンテスト会場に集ったら大変だ。「なぜ私は鳥の格好をして琵琶湖に…?」ってパニックになるだろう。でもパニックになればなるほど「忘れっぽさ」のポイントが高まっていく。ダントツの忘れっぽさで「鳥人間」の栄誉に輝いた人は、表彰台の上で首を傾げる。それがまた鳥っぽさを誘う。忘れっぽいからまた次の年もエントリーしちゃう。なんなんだこのコンテストは。

ニュース速報から鼓が

ニュース速報の音が聞こえてハッとテレビを振り返る。ウィルスが猛威をふるうこのご時世、いつなんどき何があるかわからない。そんな感じで神経研ぎ澄ませてステイホームしてきた昨今なのだけど、ここ1ヶ月そのニュース速報に振り回されている。オリンピックとパラリンピックです。

速報が入ったぞ…!と箸を運ぶ手を止め、じっとテレビを見つめると、誰かがメダルを取りましたよというニュース。めでたい。めでたいのだろうけど、心の中には半押しになったエマージェンシーのスイッチがあるのだ。速報にハラハラするのはこっちの勝手かもしれないが、かといって「またメダルでしょ」と速報を狼少年するわけにもいかない。「メダルを取ったぞ〜」と走ってくる少年。ちょっとかわいいけどもだ。

じゃぁこうしてみてはどうだろう。ニュースの内容によって速報の音を変えるのだ。事件事故災害などは今まで通りでいい。メダルを取ったとかめでたいニュースなら鼓をひとつふたつ鳴らす感じでどうか。テレビから急にポポポン!と鳴ったらめでたい感じがするんじゃないか。世界遺産に認定されたらポポポン!ノーベル賞を受賞したらポポポン!GDPが回復したらポポポン!景気がいい。

ただ問題なのは何をもって「めでたいニュース」とするかどうかだ。衆議院解散とか「えらいこっちゃ」の人もいればポポポン!の人もいるだろう。そういえばテレビに出る気象予報士は「いい天気」とは言わないらしい。農家をはじめ雨を欲している人もいるので、晴れ=いい天気ではないからだそうだ。そうなると金メダルを取ったニュースも全てポポポン!とはいかないかもしれない。金メダルを噛みたいほど憎い人もいるかもしれない。

もういっそ音がなくていいかもしれない。テレビの上を無音で右から左に流れてくれたらいい。長い文章は疲れるから短文にまとめてほしい。見逃すと困るから同じもの2回流してほしい。そういうのどっかで見た気がする。「まもなく三河安城」とかも流れていた気がする。

甘やかす概念だけ帰省

子どもたちの夏休みもいよいよ大詰め、というか夏休み自体は先週でとっくに終わっており、新型コロナ感染拡大のために8月いっぱい休校になってしまったのだった。夏のロスタイム。

しかしこの夏はほぼ家にいて、去年に引き続き帰省もしなかった。家族全員インドア派なので家時間をエンジョイして暮らしているものの、こんなに夏を持て余すこともない。ちょっとこれは景気づけにイベントを設けようと、「コンビニで好きなものどれだけ買ってもいい大会」を開いた。

客が少ないであろうお昼前、子どもたちと近所のコンビニに行き、食べたいものを片っ端からカゴにインしてよしとした。アイスも生ハムも全部ありである。「コーラ飲みたい」イン!「これ美味しそう」イン!「へぇジョブチューンで紹介されたんだ」イン!

パンパンになったレジ袋を下げて、みんなでウハウハで帰った。楽しかった。しかし考えてみるとこれは、実家に帰ってきた孫にやることではないか。「なんでも買っていいぞ」「お義父さんすいません…」「いいのいいの、たまのことだから」という魂のやりとりが発生するやつではないか。

ということはつまり、「子を甘やかす」ことによって、「孫を甘やかす」という帰省の概念だけを実現できるということだろう。時間も空間もそのままに「甘やかし」だけ帰省させるのだ。毎日好きなおかずを食卓に並べ、イオンでなんでも好きなものひとつ買ってやり、ティッシュに包んでお小遣いを渡すのだ。夏を甘やかす。それはとてもスイートな思い出になることだろう。ウハウハでコンビニから帰ったあの日も思い出になるといい。

ただ難点がひとつあって、帰省の甘やかしは帰宅によって解除されるのだが、家での甘やかしはリセットしにくい。時間も空間も地続きだから「今日も」「今日も」ってなる。寝る時間がだんだん遅くなる。朝起きてこない。明後日は始業式だぞ。おい、おいってば。