モヤモヤしたものをモヤモヤしたまま持っている人

エッセイを書く人って、過去におぼえた感情を、その形のまま持ち続けてるのがすごい。いや、なんだろうな、後になってから「あのモヤモヤはこういうことだったのでは」と考察するのだろうけど、「あのモヤモヤ」を「あのモヤモヤ」のまま、考察の段階まで持ち続けているのがすごいと思うのだ。 

集団生活で納得いかないことがあったとき、コミュニケーションがうまくいったとき、恋愛感情の高ぶりや、配偶者に対する不満、仕事における気づきと感謝、もろもろひっくるめて、そのときふわっと感じたモヤモヤは、その場で「ムカつく」「いい感じ」「なんかやだ」といった短い言葉にサンプリングしてしまいがちだ。「こういう理由でこうだった」と、すぐに原因を割り当てて満足してしまうこともあるだろう。

特に第三者に伝えるときは、10感じたことを1にギュッと圧縮して伝送効率を高めてしまう。短時間で伝わればそれが「わかりやすい」になる。でも圧縮の過程で漏れちゃうことのほうが多い。誰かに悩みを相談するときなんかも、わかりやすく伝えてしまったゆえに、アドバイスを受けても「なんか違う」ってことになってしまったりする。

その場で短くサンプリングせず、単純に原因を求めず、わかりやすく耳障りのいい言葉に落とし込まず、モヤモヤしたものをモヤモヤしたまま保持し、モヤモヤした状態で伝える努力を怠らず、それでいて誰かに伝えることができるって、本当に難しいことだし、すごいことだ。エッセイを書く人すごい。

 

自分のことを書くのが苦手だなぁ、と最近特に思うようになっている。レビューやインタビューは対象がある。自分のことを自分の言葉で書くのは書き手と対象が一緒なので、尻尾を食べる蛇みたいに食い合ってる感じがしてどうにも居心地が悪い。でも表現のひとつとして、自分の言葉で自分を語る、という力も欲しいなと思うのだ。

ひとつのコツとして「わかりやすく書きすぎない」ってのがあるのかなぁ。所詮わからないものね。自分なんてね。