『スカッとジャパン』で試される自分の寛容さ

最近『スカッとジャパン』を観るのがツラい。

視聴者が体験した「スカッとする話」を再現VTRで紹介するこの番組。「自称・ポスト水戸黄門」を掲げスタートし、イヤミ課長(木下ほうか)や、りなっしー(中村静香)など人気キャラも定着してきた。子供たちも好きで、データ放送の「ムカッと」と「スカッと」のボタンを毎週カチカチカチカチ押している。

ところが最近「悪事」と「スカッと」のバランスが取れないと思う回があるのだ。

 

こんな回があった。

 

舞台はとある会社。ある部署に新人が配属されてきた。とても優秀で仕事もできる。ところが課長(木下ほうか)は面白くないのか、なにか理由をつけては「反省文」を書かせてくる。ミスをしたら反省文。成果をあげてもケチをつけて反省文。毎日毎日反省文。最初は頑張っていた新人君だが、心が折れてしまい会社を辞めてしまう。

しばらく経ったころ。社内で点いていたテレビで街頭インタビューをやっている。そこにたまたま通りかかったスーツ姿の新人君がインタビュアーに捕まった。社内では、おっあいつだ!、とテレビに注目する。課長も部長もいる。インタビューは「最近あった嫌なこと」みたいなお題。新人君が苦々しく吐き出す。

「最近辞めた会社で、パワハラにあったんです……」

事情を知る社内の人間が一斉に課長を見る。部長がそれに気が付き「あの反省文の多さはそういうことだったのか!」「うちの会社の評判を貶める気か!」と課長を怒鳴りつける。課長はヒー!と半泣きで職場から退散する。最後に社員のナレーションが入る。

「こうして、課長は反省文を書かせることがなくなりました」

 

いやいやいや!

 

全然スカッとしないじゃないか。パワハラで若手社員を辞めさせているのである。「コラッ!」くらいの程度で終わっていいのか。しかるべき報いを受けなくてはいけないんではないか。もう(コンプラ)して(コンプラ)しないと気が済まないんではないか。

……と、イライラしていたのだけど、どうもこれは違う気がしてきている。スカッとするかしないのかというより、自分の寛容さを試されている気がしてきたのだ。 

 

僕はどうも「自分が犯した罪は二度と許されない」と思う節がある。なんらかの過ちを犯して、謝罪して反省して、相手からは許してもらえても、何年か経ってから「あの時さぁ……」と振り返られると「(許されてない!)」とビクッ!とすることがある。じゃぁどうしたら許されると思うか、と考えるのだけど、自分でもわからない。誰かの記憶に残っている限り罪が消えないと思ってしまう。

ということは、逆に僕は誰かを許すことができているのだろうか?過去にあった嫌なことを思い出すたび、その人のことは許していないのだろうか?どうしたらその人のことを「許す」状態になるのだろうか?

 『スカッとジャパン』でスカッとするかしないのか。それは誰かを許す/許さないの基準を映し出しているのではないか。どうも自分は誰かを許すのが苦手なようなのだ。『スカッとジャパン』は自分の寛容さをあぶり出す。

 

最近『スカッとジャパン』を観るのがツラい。