「信じる」のピースをかきあつめて
『健康を食い物にするメディアたち』を読みました。
健康を食い物にするメディアたち ネット時代の医療情報との付き合い方 (BuzzFeed Japan Book)
- 作者: 朽木誠一郎
- 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
- 発売日: 2018/03/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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WELQ問題の火付け役、朽木さんの著書。ネットのみならずメディア全般にはびこる「医療デマ」を無くそうと、その現状や騙されない考え方などを教えてくれる(「はじめに」がBuzzFeedで、内容の一部抜粋が東洋経済で読めます)
医学部出身の確かな医療知識と、SEOなどのネット知識を併せ持つ朽木さんしかできない、その内容は他のレビューに譲るとして……
僕が読みながらずっと気になっていたのは、「朽木さんのことを知らない人は、ここに書いてあることを信じてくれるのだろうか?」ということだった。
WELQ問題が起こったころから経緯を見ていた僕は、朽木さんが誠心誠意この問題を追いかけていたこと、BuzzFeedに移ってからも精力的に取材記事を書かれていたことを知っている。でも、ネットもほとんど見ていない人は「WELQ?」というリアクションだろう。
その健康情報は医療デマですと科学的に論拠を積み重ねても、例えばその健康情報(デマ)を唱える医者が「医者の私とネットの記者と、どちらを信じるんですか?」と問いかけたら、「ですよねぇ」となびいてしまう人もいるんじゃないだろうかと。
それはとても怖くて、無力感も覚える光景だな……と感じながら読み進めていた。
でもこの本は、「信じること」についても筆を割いていた。第4章「それでも私たちは、「医療デマ」に巻き込まれる」。東京工業大学の西田良介氏に話を聞く。
ジャーナリズムの生命線は「信頼できる」ことに加え「信頼できると思われること」であること。しかし、メディアの信頼度は下がっていること。そんな時代に信頼性を担保させる手段のひとつは、メディアがお互いを相互に監視すること。さまざまな目線が交錯するネットは、まさにこの「相互監視」の形にあること。
つまり、自分たちが声をあげることが、「信じる」のピースのひとつになる、と僕は受け取った。
世の人々は、科学的な事柄なら全て受け入れてくれる人ばかりではない。以前、3.11関連で福島に取材に行ったとき、未だに漁業や農業に風評被害があることを知った。安全と言われても安心できない。説得はされても納得はしない。人間は科学的・非科学的の2進法じゃなくて、その中間を行き来し、信じたいものを信じてしまう。
非科学的だから悪、と決めつければ、溝は深まるばかり。科学的・非科学的のグレーゾーンの存在を認めた上で、科学的なほうを「信じたいもの」に誘導できれば……。理想論なのかもしれないけど、そこに近づく一歩が声をあげることであり、本書でも提案されている「#情報のリレー」というハッシュタグなのだと思う。
信頼は一日では築けない。長い年月がかかるはず。「信じる」のピースのひとつとして、微力ながら応援しています。
「ざんねんな」「いきもの」「事典」スロット
ベストセラーになった『ざんねんないきもの事典』。
このまえ本屋に行ったら、その「亜流」がたくさん平積みになっていてちょっとしたフェアになっていた。並んでいたのはこの辺り。
よくもここまで亜流が、とベストセラーに対する憧れの強さに目がつぶれそうだが、面白いのは『ざんねんないきもの事典』を「ざんねんな」「いきもの」「事典」の3つのパーツに分け、それぞれ言い回しを変えてタイトルを作っていること。
「ざんねんな」→せつない、しくじり、泣ける、どんまい
「いきもの」→動物、偉人、ペンギン
「事典」→図鑑、大集合、伝
もはや「ざんねんな」「いきもの」「事典」スロットだ。この3つのパーツを適当に組み合わせれば新しい本が出まくりである。
『せつない偉人大集合』とか、もう既に出てるんじゃないかと思う。
ライト兄弟の前は「てるお・はるお」でした
前回の記事を書いてから思いだしたこと。
最近Twitterでこのツイートが僕としては近年まれに見るレベルで拡散されたんですよ。
小1息子が「ライト兄弟も本当の兄弟じゃないかもしれない」と疑っており、その根拠を聞いてみると「阿佐ヶ谷姉妹は本当の姉妹じゃないから」とのことでした。
— 井上マサキ(INO) (@inomsk) 2018年3月21日
いいかい息子よ。ライト兄弟はコンビの芸人じゃない。「飛距離だけでも覚えて帰ってくださいね」とか言わない。
たくさん拡散されるとたくさんリプも付くわけで、代表的なのがこの2つ。
前回の記事では「人はついツッコみのためにSNSに書き込んでしまうなぁ」と己を顧みたものだったのだけど、まさにこのツイートのバズがそれだった。足りない情報やプラスできる情報、つまり「さらに自分が知っていること」って、つい言いたくなってしまうものですよね……。
もちろんただ単純に「おもしろい!」「すごい!」「これ見て!」という気持ちでシェアされるものある。
ライター業としてWeb記事を書いているとたまに記事が広く読まれることがあるのだけど、それがどっちのバズなのかはちゃんと意識したほうがよさそう。できれば後者のほうで拡散されたいものですな……。
世の中すべてにオチをつけなくていい
最初何を言っているのかわからなかった。「選びま黒ー!!」?
「選びましょう〜」を「選びま黒〜」ともじってるならあまりに字余りだし、意味が通らないし、ははぁ〜んこれはあれだな、わざと字余りにしてこうやってネットでシェアされることを狙っておるのだな、まで思った。知ってるぞ。わたしは詳しいんだ。
で、うっかりツイートしちゃう前にようやく気がついた。
これ、「選びまくろう」だ。
「選びま/黒ー‼︎」と改行されているので気付きにくかったのもあるし、黒烏龍茶ひとつ選択肢に加わっただけなのに「選びまくる」というのもいやいやそれほどでもだし、結局この違和感をSNSにシェアしてしまうかもだけど、さっきの「ははぁ〜ん」は勘違いだった可能性がある。
SNSが発展して以来、どうも我々は「ツッコミ目線」で物事を見てしまうし、それを見越して広告キャンペーンの類が「ツッコミ待ちのボケ」を仕掛けることが増えた。ツッコんでもらって拡散してもらう、という魂胆である。
で、今度はその構造に気がつくと、世の中の広告キャンペーンが全部ボケてるように見えてきて「ははぁ〜ん」とか「わたしは詳しいんだ」とか言ってしまうのだ。
それは僕だ。僕である。このおじさん、そういうおじさんなんです。そうです、わたしがそういうおじさんです。
自分がツッコむことで世の中すべてにオチをつけようというのは、傲慢な行為なのかもしれない。
天気が良かったので外で食べました。
この世の全てがパロディだったらいいのに
「みなさんのおかげでした」最終回を録画で。最後の『情けねぇ』のかっこよさ…。「バラエティを/滅ぼすなよ」「フジテレビを/おちょくるなよ」の刃の矛先は、他ならぬフジテレビに向いている気がした。
— 井上マサキ(INO) (@inomsk) 2018年3月22日
『とんねるずのみなさんのおかげでした』が終わり、以来ずっと頭の中で『情けねぇ』が流れ続けている。ウォウウォウォウ。
最終回の放送前、ネットニュースでとんねるずの二人が歌うことは知らされていた。その時なんとなく『一番偉い人へ』を歌うような気がしていた。タイムラインを見てると他にもそう思っていた人がいたみたい。
でもよく考えると『一番偉い人へ』は、閉塞感を抱えながら「一番偉い人」に「俺たちは いま何をするべきか」と問いかける歌なのだ。「もっと大切な何かを教えてくれ」と問いただす歌なのだ。
『一番偉い人へ』がリリースされたのは1992年9月で、とんねるずの2人は30歳。それから26年経って、今56歳だ。その年月で積み上げたものは大きく高く、自分が何をするべきか、一番偉い人へ聞く必要はもはやないだろう。
『情けねぇ』は1991年のリリースで、2人はまだ20代。20代のとんねるずが大人たちを「情けねぇ」と歌った文脈そのままに、50代のとんねるずはテレビバラエティを取り巻く状況を「情けねぇ」と叫んだ。「芝居じみた正義さ」と歌いながら拳を振り上げた。
…なんてことを思いつつ、ただ単純に画面の中の二人がかっこよかったなぁ…と何度も反芻している。なんかもう、とんねるずが引退しちゃうみたいな寂しさだ。この世の全てがパロディだったらいいのに。