「若手ライターはいかに生き残るのか2」に登壇します。
イベント告知でございます。「若手ライターはいかに生き残るのか2」というイベントに、米光一成さん、青柳美帆子さんと登壇します。若くない若手ライター、という枠です。
エキレビ!でおなじみ、 小西さんが描いてくれたイベント告知のイラスト。かわいい上に元ネタがクラフトワークの「The Man Machine」。かっこいい。
イベントの告知文がこちら。
2014年11月に開催された伝説のイベント「若手ライターはいかに生きるべきか」の第二弾。
宣伝会議「編集・ライター養成講座上級コース」専任講師の米光一成と、 注目の新人ライター青柳美帆子と井上マサキが、若手ライターの現状を赤裸々にトーク。
第一弾の時は、ライターとして大活躍し、このままフリーでやるか就職するかを悩んでいた青柳美帆子が、その後の2年間がどうなっていったのかを検証。
そして40歳を超えて本格ライターデビュー、年収を倍増(元が少ないかったからな!)の井上マサキが、これまでのライター人生とこの後どういう手を打っていいのか悩みを激白。「若手ライターはいかに生きるべきか」を考え抜き、さらに交流もしてしまう3時間。
ライターはもちろん、編集やライティングに興味がある人はぜひ!*編集者/ライターは、自分が手掛けた本もしくは記事(プリントアウト可)を持ってきてね!
【出演】
米光一成(ゲーム作家/ライター)
青柳美帆子(ライター)
井上マサキ(ライター)【時間】
OPEN17:30 / START18:30【料金】
前売り¥2,000 / 当日¥2,500(共に飲食代別)
「注目の新人ライター」という煽りに恐縮しきり。40オーバーだけどライター歴3年くらい、という「若くない若手」な自分。おっさんだからインターンとかうらやましい。で、「悩みを激白」という振りなので、悩みか……と最近考えてるんですけど、悩みっぽいことが浮かぶたびに「結局自分で決めたらよくない?」とか「それは自分で頑張ったらよくない?」とか、自己完結してしまってなかなか形にならない。なんかあっても「自分が悪い」と考えがちな性分なのだった。最悪「最近22時になるともう眠くって……」みたいな悩みを激白すると思います。
これまでの歩みを話しつつ、「こんな人もライターできてんだな」と勇気を与えられるよう、まな板の上の鯉になる感じでお話しできれば。ライター&編集者の交流の場にもなるといいな。会場の高円寺punditは30席くらいで、もう3分の2くらいは埋まっているみたい。ご興味ある方はお早めに!
米光一成さんの告知エントリ↓
青柳美帆子さんの告知エントリ↓
2014年のイベントのレポート↓
Webメディアびっくりセールで「お笑い路線図トート」販売します
2月26日(日)、デイリーポータル主催の「ウェブメディアびっくりセール」にエキレビ!として参加しますー。
ネットの中の人たちが大集合して、リアルに本やグッズを売るというWebメディア版コミケとのこと。といってもコミケに行ったことがないので全てが想像です。コスプレとかしなきゃいけないの?しなくてもいい?「平服でお越しください」とか言っといて、行ってみたら全員スーツみたいなことにならない?
とにもかくにも、祭りだ祭りだ!と鼻息荒く参加を決めたものの、自著もないし同人誌も作ったことがない。でも路線図マニアとしてなんか作りたいなーということで、エキレビ!でイラストを描いてる小西りえこさんと作りました。路線図のトートバッグ。
路線図は台北地下鉄をベースに作ったオリジナルのもの。ちゃんと縦・横・斜め45度の線で作ってます。川も入れたかったんですよね。僕のわがままを実現してくれた小西さんには本当に感謝です!
さらにこの路線図、路線と駅をよく見ると…
お笑いの賞レースが路線に、チャンピオンが駅名になっています。2タイトル持っている芸人は乗換駅に。より駅名っぽくするために、「Well Ghost = 井戸のお化け = 佐久間一行」など、 ちょっと変換を施しています。なぞなぞっぽい。特にR-1のチャンピオンは博多(博多華丸)、イタリア(あべこうじ)、ミラノ(じゅんいちダビットソン)、ハリウッド(ハリウッドザコシショウ)と地名が多めだったりする。イタリアとミラノが別にあるって普通無いですけどね。
自分で欲しいトートバッグを作ったので、すごい嬉しいなぁ……。A4がすっぽり入る大きさ&マチ付きなので、たくさん物が入ります。最近これひとつで出かけてます。ふふふ。
エキレビ!ブースでは他に同人誌やら書籍やらうどん(!)やら、たくさんおもてなしを用意してみなさんをお待ちしてます!ぜひお越しください〜。
※2017/3/2 追記
通販はじめました!
この人こうなんじゃないかなプロフィール
プロフィールを考えるのが苦手だ。
揺るがない事実を並べるだけなら迷わない。卒業した学校とか、これまで書いた記事とか。そうじゃなくて、自分の得意分野とか、趣味嗜好とか、輪郭がぼんやりしたものを言葉に落とし込むのがどうにもうまくいかない。何が得意なんだろ。好きなものとかも。ぼやーっといいなーと思っているものを、言葉というパーツでサンプリングすると、なんか出力が変わっている気がする。これでいいのかよくわかんなくなる。わからん。
もうこれ、いっそ誰かに決めてもらっていいんじゃないかと思う。アウトソーシングである。ただ人任せなだけとも言う。
結局自分を外からよく見れるのは自分ではなく他者なので、他者が捉えている「僕らしさ」がプロフィールになれば、それは広く通じるものになるんじゃないか。独りよがりで「これが僕です」と言ってても、伝わらなければ意味がないんじゃないか。
というわけで、いろんな人に「この人こうなんじゃないかな」のアンケートを取って集計したら、それがプロフィールになるんじゃないかなーどうかなーと考えていたりする。例えばこんなの。
- 読んでそうな漫画
- 観てそうな映画
- 好きそうな三国志の武将
- できそうな宴会芸
- 病んでそうな内蔵
- おそらく所属している団体
- これくらいだと思うスリーサイズ
- いかにも大切にしてそうな座右の銘
- この星座と血液型じゃないと説明がつかない
- 着てそうな寝間着
- 入ってそうな布団
- 言ってそうな寝言
終盤、僕のナイトライフを想像させてるのはなぜなんだ。なんのアピールになるのか。寝具業界向けか。いやたぶんいま眠いだけだ。入ってそうな布団に入ろう。
二段ベッドに寝るのが夢だった
ここ数日、二段ベッドに寝ている。
二段ベッドは子供部屋に置いてある。いつもは上段に娘9歳が、下段に息子6歳が寝ている。その息子6歳がインフルエンザになったのだ。看病のため、息子6歳はママと和室で寝ることになった。押し出しでパパが二段ベッド行きである。
考えてみれば、二段ベッドに寝るのは子供の頃の夢だった。ずっと布団で寝ていたので、まずベッドで寝ることに憧れがあった。そこに倍率ドンで二段のベッド。ハシゴで上下を行き来するのが秘密基地っぽいし、ドンキーコングっぽさもある。友達の家で二段ベッドを見るたびに、心の中で口笛がヒュ~と響いた。いいベッド持ってんじゃん。それは日常の中の非日常だった。
二段ベッドに憧れて、押し入れで寝ようとしたことがある。布団を全部出した後、1組だけ押し入れの上段に敷く。寝転がった状態での視点の高さは、床に寝たときより高く、立ったときより低い。いつもと違う視点で見下ろした部屋の光景が不思議だった。しかし、はたから見ればそれはただのドラえもんだった。
時は流れに流れて、40歳を越え、数日の間とはいえ二段ベッドに寝ることになるとは思わなかった。しかし、である。子供のころ憧れていたのは、どちらかと言えば上段のほう。だが、いま寝ているのは下段。でもいいのだ。下段でいいのだ。なぜなら、二段ベッドは、二段ベッドは……揺れるんですよ。
大人の体になって、二段ベッドの上段に寝るのは怖い。まず高い。中途半端に高い。リアルな高さが怖い。そして揺れる。思ったよりグラグラ揺れる。怖い。おちおち寝返りもできない。ハシゴは登るのはまだいいけど、降りるのはおっかなびっくりだ。及び腰だ。
大人になると叶うこともあるけど、失うものもある。そして妥協も覚える。二段ベッドの下段に寝ることで、子供のころの夢と折り合いをつけている。
====
3月5日(日)にイベントをやります。「若手じゃない若手」としてまな板の上の鯉になる予定です。ピチピチ。
「人間の感情は相対評価ではなく絶対評価だ」
週刊文春(2月9日号)で、朝井リョウさんが『勉強できる子 卑屈化社会』の書評を書いていました。
『勉強できる子 卑屈化社会』は、「勉強できる子」が感じる生きづらさを書いていて、もう首ガクガクでうなずきながら読んだのでした。この本のいいところは、「勉強できる子リスペクト&運動できる子ディス」に終わること無く、両者とも「才能を伸ばした人」という点で平等に評価しようとするところ。
「勉強できる子」というのは、やっかみの対象になりやすい。運動できる子に比べて、勉強できる「くせに」とか、勉強できる「んだからいいだろ」とか言われて、勉強できるゆえの生きづらさは理解されにくい。朝井さんの書評では「あることができるゆえの悩みなんて贅沢と言われそうだが」と前置いて、「人間の感情は相対評価ではなく絶対評価だ」と続く。
「こちらの立場のほうが辛い」「こちらの立場で悩んでいる人のほうが多い」なんて比較は意味がない。悩んでいるその人が辛いと感じたら、それは百%、きちんと辛いのだ。そんな真っ当な主張さえ許されないような場所に佇む人に、この本は優しく寄り添う。
子供の頃、転んで怪我をしたときに、大人に「これくらいの怪我は怪我じゃない」と言われるのが嫌だった。自分にとっては怪我なのだ。痛いのだ。怪我じゃないなら滲んでいるこの血はなんなのだ。もっとすごい怪我を経験しているからといって、小さな怪我が帳消しになることはないじゃないか。
怪我を怪我だと認め、優しく寄り添うことができたなら、世の中の諍いってずいぶん減る。「感情は絶対評価」、リピート・アフター・ミー、「感情は絶対評価」。辛いものは辛いのだ。
ちなみに以前書いた『勉強できる子 卑屈化社会』の感想はこちら。数学教師に挑発された話から始まってます(LINE BLOGに書いてたんですけどこっちに移しました)