投げっぱなしのほうが印象に残る

 

西側にあったホームは撤去され、花壇に花が植えられている

 

耳に心地良い57577のリズム。ホームと花壇の情景に想像が膨らむ短歌。

しかしこれ、実は三方駅 - Wikipediaの中にある記述なのだ。実際はこうなってる。

敦賀方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。かつて西側にあったホームは撤去され、花壇に花が植えられている。改札口は東側のみである。西側から見ると盛土の上に線路があるが、駅横の地下歩道で往来できるようになっている。

一見、普通のWikipediaの記載のなかに実は短歌が隠れている。これをプログラムで見つけ出し、「偶然短歌」と名付けてTwitterでbotとして稼働していたのが一冊の本になった。2016年8月に刊行された『偶然短歌』である。

 

偶然短歌

偶然短歌

 

 

右ページに偶然短歌、左ページにせきしろさんのコメントが記されている構成。たまたま57577になっている箇所を無作為に取り出したのに、綺麗な文章になっていることがあって驚く。竜兵を中心とする飲み仲間「竜兵会」の一員である有吉弘行 - Wikipedia)とか、バック宙、高台からのバック宙、壁宙などを披露しており東山紀之 - Wikipedia)とか。

しかしそこは無作為抽出、逆に深い余韻を残すものもある。余韻っていうと聞こえがいいけど、平たくいうと投げっぱなし。例えばこんなの。

 

悪役を屋根から放り投げるため、悪役が言う台詞は当時 新克利 - Wikipedia

こういった夜間海面近くまで浮上してくる生物もまた海底 - Wikipedia

モニュメント、展望公園、西側に武蔵野の森、大きな広場 府中の森公園 - Wikipedia

 

でも、この「投げっぱなし」のほうが印象に残るのだ。「当時」なんなんだとか、「生物もまた」なんだんだとか、この場所は一体なんなんだとか、想像がする幅がかえって広いのだ。

この「未完成ゆえに想像しがいがある」「解釈の幅が残っている」というのは、本来その文字数で表現しきれないことを読み手が補完して世界を作るわけで、短い文章で表現する場面ではすごい大切なことだと思う。17音の俳句、31音の短歌、大喜利なんかもそう。限られた文字数で世界を閉ざさず、読み手の想像力に乗せて飛ばせたらぐーんと世界が広がる。

なんてことを、そうとは一切考えてないプログラムが抽出した短歌で考えさせられてしまうのだった。

そうそう、投げっぱなしでなくて、きれいに余韻が決まってるのもあるんですよ。

 

照らされて雨露が輝く半分のクモの巣だけが残されていたくもとちゅうりっぷ - Wikipedia

 

アンコントローラブルなる偶然に身を任せるのも悪くないよね。

 

偶然短歌

偶然短歌

 

 

勉強ができる、すごい。それでいいじゃないですか。

数学教師に挑発されたことがある。

中学の頃、クラスで一番成績がよかった。だからなのかそうじゃないのか、その数学教師からはちょいちょい目をつけられていた。彼女は全体的に皮肉屋で、口は悪いけど本当はいい人、というキャラになりたいようだったが、口の悪さのウェイトが群を抜いており、その狙いは成功しているとは言いがたかった。

ある日のこと。図形の角度を求める問題が黒板に書かれ、僕とは別の男子が指名されて前に出た。彼も成績優秀なグループにいたが、答えはわからず黒板の前で立ち往生していた。僕は一番前の席で彼が苦しむのを見ながら、自分も答えがわからず考えていた。補助線を引いてもはっきり求められない。どう解くんだあれ。

しかし、彼女は僕が「黒板の前で立ち往生している人を見て見ぬ振りしているヤツ」ととらえた。横目で僕を見ながら「あ~あ~、わからなくて困っている人がいるなぁ~」「誰かに助けてもらえたらなぁ~」「見捨てるなんてひどいなぁ~」と、クラス全員の前でチクチク攻めた。

チクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチク

「ぅっせーな!!!じゃぁやるよ!!!」

後にも先にも教師に切れたのはこの時だけのはずだ。生徒に嫌われていた数学教師に、勉強できるやつがキレた。突然起きた事件にクラスは盛り上がった。彼女を睨みながら黒板の前に出て、困っている彼と交代した。

わからなかった。

全然わからない。わからない。あれだけ啖呵を切ったのに、結局黒板の前で立ち往生するしかない。クラスメイトから「わかんないのかよ~」「かっこわる~」という声が飛ぶ。教師はニヤニヤしながら何も言わずに見ている。地獄だった。情けなくて仕方なかった。消えて無くなりたかった。挑発に乗るなんて本当に愚かなことをした。席に戻るよう言われ退散し、解説を聞いた。その内容はあまり納得のいくものではなかった。

下校後、家で必死に証明を考えた。後日、次の数学の授業のときに申し出て黒板に証明を板書した。それは教師が観念的に説明した内容よりも長大なものになった。自分以外にとってはどうでもよい内容だったはずだ。でも書かずにはいられなかった。わからないのにわかるはずと決めつけられたのなら、わかること証明しないと先に進めなかった。あの理不尽さ、悔しさは今でも忘れない。

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ちゃんとした感想を書きたいなぁと思いながら年末になってしまった。前川ヤスタカさんの『勉強できる子 卑屈化社会』。

勉強できる子 卑屈化社会

勉強できる子 卑屈化社会

 

中学高校と、いちおうその、「勉強できる子」だったので、序盤に並べられている「勉強できる子あるある」は本当に首をガクガクさせてうなずくばかりだった。運動できる子は胸をはって自慢できるのに、勉強できる子は自慢すると叩かれる。なぜか勉強できてすみません的なポジションにならざるをえないのだ。さっき無意識で「いちおうその」って入れてしまったけど、このちょっと自分を卑下する感じがまさにそれじゃないか。うっかり書いちゃってた。

勉強できても女子にモテるわけじゃないし、先生に好かれるとも限らない。あげく「勉強だけできてもろくな大人になれない」とか言われるし、テレビではガリ勉は損な役回りばかりで、元ヤンの方が持ち上げられたりする。「変人」とか「紙一重」とか言われる。なんなのだ。なにも迷惑かけてないのに。

と、強い怒りをもって運動できる子などを糾弾する……という本ではないのが白眉。後半に筆を割かれているのは「共存」だ。

勉強できることがうしろめたくなるのはなぜなのか。その背景を探り、メディアが描くネガティブな勉強できる子イメージを浮かばせる。その上で、勉強できる子の立ち回り方を振り返り、処世術を提案する。スポーツできる子に対してマウンティングをするわけじゃない。周りの大人たちもメディアも、スポーツできる子も勉強できる子も平等に褒めればいいじゃないかと主張する。

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スポーツができる。すごい。
絵が上手。すごい。
歌がうまい。すごい。
かわいい。すごい。
おしゃれ。すごい。
勉強できる。すごい。
それでいいじゃないですか。
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自分に無いものを持っている人を褒める。すごいなぁと思う。ただそれだけの話なのだ。

かつて勉強ができた大人たちも、できなかった大人たちも読んでほしいし、いま勉強できることで孤立している子供にも伝えたい。あと、大人たちの挑発には乗らないほうがいいことも。

 

勉強できる子 卑屈化社会

勉強できる子 卑屈化社会

 

 

『ハナタカ!』がきっかけで空になった投票箱を見た

7月10日。参議院選挙の投票日。早朝6時半に投票所の前に並んでいた。眠い。

きっかけは1週間前。7月3日放送の『くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館』テレビ朝日系列 毎週日曜18:57~)だった。いわゆるトリビア系の番組で、事前にアンケートをとり「日本人の3割しか知らないこと」だけを紹介している。さすが3割だけあって、けっこう「へー」率が高い。あと、VTRに出てくる役者の人がなんか素人っぽい。『ど~なってるの!?』の再現VTRを思い出す素人感がある。

普段、日曜夜は鉄腕DASH!→世界の果てまでイッテQ!の、日テレ王道パターンを観ているのだけど、なぜか息子5歳が『ハナタカ!』の予告スポットを見て「これ録画して!」と頼んできたのだった。息子5歳は年齢の割にテレビの趣味が渋い。旅番組が好きで『もしもツアーズ』の録画を頼まれることもある。美味しそうな食事と豪華なホテルが好きなのだそうで、最近までは『極上!旅のススメ』も観ていたのだけど、この4月から芸能人ゆかりの地を訪ねるようになって興味が無くなってしまった。この前は『ガッテン!』の糖質制限特集まで観ていた。あいつテレビに関しては僕と同じかそれ以上なんではないか。

で、その日の『ハナタカ!』は選挙のハナタカを紹介していた。その中の一つが「投票所に一番最初に投票に行くと、投票箱の中を見ることができる」というもの。

投票開始時点で本当に投票箱が空かどうか。不正防止のため、選挙管理委員会だけでなく投票に一番最初に来た人も一緒になって、投票箱の中身を改めることになっている。

これを見た子供たち「行きたい!」と言う。投票箱が空か確かめたいと言う。電波少年風に言うなら「投票箱が空かどうか、確かめ、たい~!」な感じで言う。

一番になんて行ったことが無い。日曜の朝である。投票開始は朝の7時から。近所のお年寄りとかすごい早起きして並んでるんじゃないか。いつ行ったら勝てるんだ。6時か。5時か。そんなに?

「朝早いからヤダ」「めんどくさい」「自分が投票するときになったら並んだら」など断ってもいい。でも、ここは乗った。おもしろそうじゃないか。テレビで得た知識を実際に現地で確かめようというのである。自分の目で確かめるのは大事だ。パパもアザラシのタマちゃんが多摩川に来た時は観に行ったことがあるぞ。タマちゃんはいないし人は多いし便乗している売店はあるし、全然目的は達成できなかったけど、その現場の空気を吸ったのはやはり思い出に残る。投票箱の思い出を残してやろうではないか。なんだ早起きくらい。5時か?6時か?いややっぱり早くないか。

あまり早く行きすぎても、ただ並んでるだけでは子供は退屈してしまうので、6時半到着に設定。土曜夜になって娘9歳は「どっちでもいい……」と言い出すが、いいから行くんだ。

そして当日。7月10日日曜日。朝の6時半。投票所には誰も並んでいなかった。おぉ、一番だ。7時5分前くらいになって2番目3番目の人が現れる。投票箱目当てで並んでいるのはうちの家族だけのよう。気合を入れすぎた。待ちくたびれた息子5歳はパパのスマホで「妖怪ウオッチぷにぷに」を初めている。

7時。投票所がオープン。受け付けを済ませると、「一番の方には投票箱の中を見てもらうので……」と係の人。見ます見ます。子供たちもかぶりつきで投票箱を見る。パカっとオープンした投票箱は確かに空。「いいですか?」との声にうなずく。蓋を閉めてガチャリと南京錠をかけるところで子供たちは「おぉ~」と歓声をあげた。このあと3つ数えて再び投票箱を開けたら美女が出てくるのではないか。そんなマジックが起きそうだった。

選挙区、比例区と2つの投票箱が空になってることを確かめ、投票を済ませる。「見たね!」「見たね!」と大人も子供も興奮して投票所を後にした。早起きしてよかった。ええもん見た。でもどうしても眠くて大人は二度寝した。

その日の夜。『鉄腕DASH!』では、ダッシュ島でTOKIOが投石器を作っていた。国民が一票を投じたその夜に、TOKIOは2kgの石を50m先に投じていた。子供たちが「これやりたい!」って言ったらどうしよう、やっぱりやらせたほうがいいのかな……と心配してしまった。

『スカッとジャパン』で試される自分の寛容さ

最近『スカッとジャパン』を観るのがツラい。

視聴者が体験した「スカッとする話」を再現VTRで紹介するこの番組。「自称・ポスト水戸黄門」を掲げスタートし、イヤミ課長(木下ほうか)や、りなっしー(中村静香)など人気キャラも定着してきた。子供たちも好きで、データ放送の「ムカッと」と「スカッと」のボタンを毎週カチカチカチカチ押している。

ところが最近「悪事」と「スカッと」のバランスが取れないと思う回があるのだ。

 

こんな回があった。

 

舞台はとある会社。ある部署に新人が配属されてきた。とても優秀で仕事もできる。ところが課長(木下ほうか)は面白くないのか、なにか理由をつけては「反省文」を書かせてくる。ミスをしたら反省文。成果をあげてもケチをつけて反省文。毎日毎日反省文。最初は頑張っていた新人君だが、心が折れてしまい会社を辞めてしまう。

しばらく経ったころ。社内で点いていたテレビで街頭インタビューをやっている。そこにたまたま通りかかったスーツ姿の新人君がインタビュアーに捕まった。社内では、おっあいつだ!、とテレビに注目する。課長も部長もいる。インタビューは「最近あった嫌なこと」みたいなお題。新人君が苦々しく吐き出す。

「最近辞めた会社で、パワハラにあったんです……」

事情を知る社内の人間が一斉に課長を見る。部長がそれに気が付き「あの反省文の多さはそういうことだったのか!」「うちの会社の評判を貶める気か!」と課長を怒鳴りつける。課長はヒー!と半泣きで職場から退散する。最後に社員のナレーションが入る。

「こうして、課長は反省文を書かせることがなくなりました」

 

いやいやいや!

 

全然スカッとしないじゃないか。パワハラで若手社員を辞めさせているのである。「コラッ!」くらいの程度で終わっていいのか。しかるべき報いを受けなくてはいけないんではないか。もう(コンプラ)して(コンプラ)しないと気が済まないんではないか。

……と、イライラしていたのだけど、どうもこれは違う気がしてきている。スカッとするかしないのかというより、自分の寛容さを試されている気がしてきたのだ。 

 

僕はどうも「自分が犯した罪は二度と許されない」と思う節がある。なんらかの過ちを犯して、謝罪して反省して、相手からは許してもらえても、何年か経ってから「あの時さぁ……」と振り返られると「(許されてない!)」とビクッ!とすることがある。じゃぁどうしたら許されると思うか、と考えるのだけど、自分でもわからない。誰かの記憶に残っている限り罪が消えないと思ってしまう。

ということは、逆に僕は誰かを許すことができているのだろうか?過去にあった嫌なことを思い出すたび、その人のことは許していないのだろうか?どうしたらその人のことを「許す」状態になるのだろうか?

 『スカッとジャパン』でスカッとするかしないのか。それは誰かを許す/許さないの基準を映し出しているのではないか。どうも自分は誰かを許すのが苦手なようなのだ。『スカッとジャパン』は自分の寛容さをあぶり出す。

 

最近『スカッとジャパン』を観るのがツラい。